プロローグ

●サーカス団の象●

その時、私は、東京駅近くのホテルのラウンジで、あるクライアントさんとお会いしていました。

その方は、当時、私が行っていた誕生数秘学のセッションメニューの中で、4か月に3回セッションを行う、というパーソナルカウンセリングをお申込み下さっていま した。
その日は最終回の3回目。ご主人の身体的・精神的暴力、いわゆるドメスティッ クバイオレンス(DV)に悩まれていた方でした。ご自身でもご友人に相談されたり、 弁護士さんとお会いになったりと、かなり前向きに、ご自身なりに努力なさっていました。

ある雑誌で誕生数秘学のことを知り、自分の特徴を自分自身とても納得できたので、今後のことを乗り越えていくために、もっと誕生数秘学の知恵を知りたいとのことでした。

お会いする前は、私のセッションが、どれくらいDV被害者の方にとって、おチカラになれるのかは全くの未知数でした。彼女としては、ご主人以外の第三者と交流を 持っておくことも目的だったようですが、毎回同じ話の繰り返しでも、少しずつ明る い雰囲気になられていくご様子を拝見するのは嬉しかったです。

ひと言でDVと言っても、そのケースは様々です。

専門家ではない私が軽々しく言うものではありませんが、いわゆるDV被害者は、 逃げだせばいいと自分ではわかっていても、その状態から抜け出せない……、また元の状態に戻ってしまう……、
そんなことを繰り返してしまうようです。

それは、まさに「サーカス団の象」の様に、十分に鎖を引きちぎって逃げ出すチカラはあるのに、逃げ出そうともしない、そんな姿に似ています。鎖につながれた子象は、何度逃げ出そうとしても、その小さなカラダでは杭を外すことができず、そのうち逃げることをあきらめてしまうのだそうです。

大人になって、十分なチカラを得ているにも関わらず、子どもの頃の記憶が消えずに、「逃げられない」と思い込んでいるので、行動に起こさないのです。

 

●自分の光を感じたとき●

病院から、父が危篤であるという知らせの電話があったのは、彼女と最後のご挨拶 をしようとしていたところでした。私の様子に気づいた彼女は、早く病院に行くように、と私を促してくれました。その後、彼女とは何度かメールでやりとりをしました が、やがて連絡も途絶えてしまいました。

彼女の場合に限らず、DVに悩まれている方に対しては、どうして逃げることが出 来ないのだろうか? ということが、ずっと疑問でした。
いろいろと情報も調べて、支援センターなどがあることも知りました。彼女にお会いするたびに、「いまここで逃げると決めればいいだけなのに……、いまここで帰らなければいいだけなのに……」と 思うこともありました。

しかし私の目の前にいる彼女は、私にとって大きくて怖く絶対的だった父から、逃げることがずっとできないでいた、それまでの私そのものでした。 身体的な暴力はなかったものの、父から言葉の暴力を受けても、結局は「家族だか ら……」「親子だから……」と、私は、知らず知らずのうちに、がんじがらめになっていたのです。

いまでもふと、彼女のことを思い出します。
いま、彼女が幸せな状況にあることを願っていますが、父が亡くなる直前に彼女と お会いしていたことは、私にとって、とても大きなメッセージだったと思います。 現実的に、私は彼女を救い出すことは出来ませんでしたが、周囲がどんなに救いの手を差しのべても、彼女自身が変わろうと行動しない限り、彼女を救うことはできません。 それは、とてもとても時間のかかることだと思います。

私は、そんな彼女の人生の一瞬に立ち合っただけですが、きっと彼女は一歩ずつ変化していっていると思います。それは数回のセッションのなかでも、確実に実感できていましたから……。
私も、誕生数秘学に出会い、これまでの自分にも、これからの自分にも逃げないように、たとえ上手に進めなくても、スピリチュアルを学ぶことをやめなかったからこそ、父が亡くなるというタイミングで彼女に出会うことができた様な気がします。
彼女が誕生数秘学に自分の光を見たように、 私もまた、自分の光を感じていたのです。

 

●許せなかった父の言葉●

薄暗く湿った石畳の地面は、大通りに向かってのびる坂道。

坂を下りながら、少し前を行く父は、「また、ここへ来たら、二度と迎えに来ないからなっ!」と、前を向いたまま私に告げました。

これは、私が覚えている記憶の中で、もっとも辛い父との記憶です。

私が幼稚園生の頃、母が肝炎を患い3か月ほど病院に入院することになりました。 当時、私の家族は、父・母・兄・父方の祖母・私の5人暮らし。祖母一人では、小学生と幼稚園の子どもを世話することができないと、私は母方の親戚の家に預けられま した。
預けられた伯父の家は、伯父・叔母・いとこ姉弟と、母の姉である叔母が暮らしていました。私は、母の姉である叔母の部屋に寝泊まりさせてもらい、食事やその他の時間は、伯父家族と過ごしました。伯父は、毎日お酒を飲み、明るく楽しい人で、 いとことも年齢が近かったこともあり、私の家とはまったく違う楽しい雰囲気で、子どもながらに楽しい居候でした。

でも、夜になると急に寂しくなって、叔母の布団の中で、毎日泣いていました。 「お母さん、早く迎えに来て……」と願いながら、楽しいこの伯父の家にずっと居たいという思いと、早く自分の家に帰りたいという複雑な思いで、毎日を過ごしていま した。

「もう少しだから、我慢しようね……」 叔母には、そう言って慰めてもらっていたと思います。

そして、やっと、父が私を迎えに来ました。不思議なことに、預けられたときの記憶と、父と伯父・叔母とのやりとりは、まったく記憶していません。私が覚えているのは、伯父一家との楽しい記憶と、叔母に慰めてもらったこと、そして、父が迎えに来た日の、あの路地裏での強烈な記憶だけです。

どんな事情があったとしても、急に伯父の家に預けられて、寂しい思いを我慢してがんばったのに、あの時、父が私に投げつけた「また、ここへ来たら、二度と迎えに来ないからなっ!」という言葉は、客観的に見ても、いまでも腹立たしいです。でも、 当時の私の立場で思い出すと、「お父さん、ごめんなさい……」となぜか自分を責めているのです。

 

●母の存在●

いまでは、なぜ、父がそんなことを私に言ったのか、ちゃんと聞いてみれば良かったなと思います。記憶と言うのは、曖昧ですから……。そして父にはきっと、そう言いたかった父の心情があったのでしょう。

でも、その後の暮らしの中で、私が父に対して理解を示すというような、そんな思いを持つことは、ずっと出来ませんでした。父との生活のひとコマひとコマのどこをとっても、私にとっての父は、常に不条理で怖い、得体の知れない存在だったのです。

父は、すぐにカッとなる性格で、いつも怒っていました。人のけなし方も半端では なくて、「お前なんか生きている意味がない……」と言う勢いで、誰に対してもキツイ言葉を浴びせていました。その怒り方が尋常ではなかったので、本当によく事件にな らなかったなと思います。
あ、でも母からは一度、朝家を出た父が、バスに乗る時に他の乗客とケンカして、血まみれで帰って来たことがあると聞いたことがあります。 警察沙汰にはならなかった様ですが、そんなスレスレのことは、たくさんあった様です。

父が家族に手を上げることはほとんどありませんでしたが、モノを投げるので、いろんなモノがよく壊れていました。
休日のある日、お昼ご飯に家族でスパゲッティを食べていたのですが、何がきっかけだったか、父が急にフォークを天井に投げつけた のです。いまではもう、その家は取り壊されてしまいましたが、そこを引っ越すまでの間、天井に残っているスパゲッティーの痕跡を見ては、母や兄とよく苦笑したものです。

反面、母の性格は、そんな父の短気でキツイ性格とまるっきり正反対でした。父の攻撃を上手くかわしては、私たちに笑いを起こさせる母は、父にとっては良きパートナーだったのだと思います。しかし、躁鬱病を患っていた母は、感情の波が激しく、当時はこの病気が社会的にもそんなには理解されていなかったので、父も私も、母の言動が理解できなくて、困惑することが多かったのも事実です。

 

●恐怖と葛藤の日々●

しかし、そんな母に対しても、父の態度は、本当に厳しかった。
私が中学生の頃、うつ状態で寝込んでいる母に、父は洗面器で水をかけることがありました。無理やり引っ張り起こして、階段から突き落としたこともあります。
私は、そんな父から母を守ろうとするのですが、私の中には、母に対する怒りもあって、二人を仲裁するのはとても苦しかったのです。なんで私がこの家にいて、こんなことをしないといけないんだろう……という、葛藤の日々。

あまりにも激しい罵り合いをするので、耐えきれなくなった私は、父に対して包丁を向けたこともありました。もちろん、本当に刺すつもりはありませんでしたが、一歩間違えば大事件です。
こうやって、ここで父の横暴ぶりを、こと細かに書いても仕方ありませんが、母や兄、親族やその周囲の人々、まったく知らない人などさまざまな人たちと、父との関係に対し、私は常に緊張していました。いつか何か起こるのではないかと、いつも不安と背中合わせでした。

そして、いつの頃からか、私は、この父の家系が絶えればいいと思うようになりました。
こんな父の血を引いた子孫を残すのは止めよう……、そんな罰当たりなことを誓ってしまいました。そして、実際、兄にも私にも、子どもはいません。

誕生数秘学を知り、スピリチュアルな学びの途中で、私はこの誓いを打ち消しましたが、現実は変わっていません。本当に、この誓いのせいでいまの現実があるのかはわかりませんが、そんなことを誓ってしまったことは、ちょっぴり後悔しています。

母が亡くなり、父が介護を必要とするようになっても、父の気質は変わりませんでした。今後のことを話し合っている間にケンカになり、病院に入院していた父を、車いすごと廊下に置き去りにしたことも、何度もありました。

私は、周囲から、「父と暮らすように……」と言われることが、怖くて仕方ありませ んでした。父をよく知る人は、決してそんなことは言いませんでしたが、事情をあま り知らない他人からは、「お父さんと一緒に暮らしてあげればいいのに……」と、無責任なことを言われたこともあります。
それを言われることは、どんなに辛かったこと か知れません。
その恐怖と怒りの矛先をどこへ向ければいいのかわからず、私は毎日怯えていました。父に私の生活を奪われることも耐えられませんでしたが、それよりも、今度こそ、取り返しのつかないことをしてしまうのではないか……という恐怖の方が大きかったのです。

この私の育った環境が、DVの状況であったかどうかはわかりません。その判断は微妙なものでしょうし、両親が存在しない今、それを検証することにはなんの意味も 感じません。

 

●ギフトのおすそ分けができたなら…●

私が体験してきたことは、ある人にとっては些細なことかもしれません。また、ある人にとっては、驚きのことかもしれません。体験することにより得られるものは、個人の内側のものだと思うので、どっちが大変だったかなどと、比較するのはナンセンスです。
でも、どんな出来事であったとしても、それをきっかけに少しでも変わっていくことができたという体験は、私本人にとっても、周囲の人にとっても、きっと大きなギフトになるのだと思うのです。

母が亡くなったことで、父と本格的に向き合わざるを得なくなり、必死にもがいた結果、メンターであるはづき虹映氏と出会い、誕生数秘学やスピリチュアルを学ぶことができました。

そして、思いもよらないカタチで父をちゃんと見送ることができた私は、この結果に導いてくれた誕生数秘学とスピリチュアルを学ぶこと、それによって受け取ったギフトを、書き留めておきたいと思うようになりました。

本書を手にとって頂いたみなさんに、少しでも私が受け取ったギフトのおすそ分けができたなら、私はとても、とてもうれしいです。